難波田弾正の死

小説/歴史創作戦国時代

過去企画の再掲です。太田資正×多目元忠前提。

北条家に城を奪われ膝下に屈した関東一の策士・太田資正と、北条家当主・氏康の軍師として仕える多目元忠。
…というとかっこいいですが俺様何様策士様でメンナク風吹かせな攻め・太田資正と凛とした美人系軍師かつ淫乱(?)な本命いるのに未亡人感ただよう受け・多目元忠のお話です。

序にあたる本作は、資正の義父・難波田憲重(善銀)と河越夜戦の話。
資正は出てきません。


明け方の暁のなか、湿気た空気を払う間も無く難波田善銀は血刀を振るっていた。
――なぜ、このようなことに。
関東管領軍、古河公方軍を合わせ、我が方は八万。
城は蟻の這い出る隙もなく、和睦の願いも断った。
北条氏康には、河越城を捨てる他なかったはずだった。
それが、夜襲により全てが一変してしまった。
――扇谷上杉朝定、討死。
先刻報に接した善銀は、足元が崩れ去るような心地がした。
戦線の崩壊。主の討死。一刻も早く居城へ退かねば、勢いに乗った北条軍は戦場にいる主だった首を全て狙うであろう。善銀は敵を切り伏せつつも、なんとか居城松山城への方角を探る。
――わしの首が一番に欲しいはずだ、氏康めは。
この度の河越城包囲は、善銀が仕組んだものだ。氏康は間違いなく己の首級を挙げたいはずだ。
扇谷上杉家の主城、河越城の奪還。それが主と、善銀の悲願だった。
かつては主と仰いだ主家の関東管領山内上杉家をも凌ぐ権勢を誇った扇谷上杉家は、天文六年(一五三七)に相模の北条氏綱によって本拠地河越城を奪われたことで、大きく勢力を減じた。
一人、また一人と重臣が減るなか頭角を現した善銀は、それを挽回しうるため、あらゆる手を尽くした。
だが一度奪われた城は容易には取り戻せず、扇谷上杉家は衰退の一途を辿る。困り果てた善銀は、未だ大軍を擁し、関東の権威の頂点に君臨する関東管領・上杉憲政および古河公方・足利晴氏を味方に引き入れることを画策した。
とりわけ晴氏は氏康の娘を娶っている間柄であったから、彼が扇谷側に組することは氏康に対して大きな打撃を与えることになる。
事実氏康は幾度となく晴氏を通じて上杉方との和睦を望んだ。
しかし晴氏はこれにまるで応じなかった。
足掛け四年、関東管領と古河公方を動かすための交渉は難航したが、善銀の思惑はほぼ理想通りに進み、あとは氏康が河越城を放棄して相模に逼塞するのを待つだけだったのだ。
思えば善銀は、氏康が父の氏綱に率いられ、小沢原で初陣を飾った時から彼に危機感を抱いていた。
聞こえてくる評判は、零落していく主家とは対照的に華々しく期待の声ばかりであったし、なにより河越城を奪ったあの氏綱の薫陶を受けているのである。
奪った城を堅実に守り、確実に扇谷家を死至らしめようとしていた氏綱の意を汲んだ氏康が何をするかは明白であった。
そして、善銀の危惧は現実のものとなった。
――資正は、無事であろうか。
善銀は、この合戦にどうしても出たがった娘婿のことをふと脳裏に浮かべた。
――聡いあやつのことだ、とうに脱出しておればよいが。
北条家と融和路線を図りたい兄と対立し、居場所を失いかけていた資正にとって、扇谷上杉の守護神たる善銀は最後の心の支えであり、師であった。
己を助けにこようとして無茶などしていないだろうかと思いを馳せながら、善銀は血路をひらくため先を急いだ。

東明寺口から抜けて、松山城へ向かおうとしたその時である。
善銀は、待ち伏せていたとおぼしき北条方の隊に囲まれた。
隊の長であろう青年が前へ出、作りのいい刀を善銀に向ける。
彼はすでに、こちらが名のある武将とわかって待ち伏せしていたようだ。
「見つけたからには城へ返すわけには参りません」
「貴様ごときにこのわしが殺せると思うな、小童」
善銀も、再び刀を抜き青年の方へと構えた。
多勢を連れているようには見えないが、一人で応戦している善銀には間違いなく不利だ。
――北条の諸足軽隊だな。
青年の身なりからして、主力軍でないのは確かだ。戦況がひっくり返ったのを見て、氏康が遊軍を差し向けたのだろう。
この地で善銀たち上杉氏の配下を出来る限り始末するために。
善銀は、先手を打って取り押さえようと飛びかかってきた青年の部下をいなして股間に膝で蹴りを入れる。そのまま、気絶した体を正面から切りかかってくるもう一人を防ぐ肉壁とした。隊の長に問う。
「貴様、名は」
「多目新左衛門。貴殿は難波田弾正殿ですね」
「なるほど、多目か。聡い走狗(いぬ)め」
彼の部下ふたりをなんとか始末した善銀は、青年に向かって吐き捨てた。
多目氏は、北条家が小田原を取った折に先陣を切った誉れの家である。
初代北条早雲の朋友でもあり、今では北条家の中でも柱石といっていい存在であった。
青年は刀を下ろすと、真っ直ぐにこちらを見て告げる。
「潔く縄につけば命だけは助けると氏康様は仰せです」
「ほざけ」
善銀は吐き捨てるように多目と名乗った青年を睨めつけた。
「貴様らにかけられるような情けは持っておらん」
怒りに声を震わせながら、善銀は刀を構え直す。
多目が諦めたように刀を取り直すと、善銀は静かにすうっと息を吐いた。
せめてこの男の首が取れれば、それでよい。
決めるなら一撃で仕留めねばならない。
それで周りの兵に己が打ち取られることになっても、もはや戦の大勢が変わることはないだろう。
それでも善銀は、最期の瞬間まで扇谷上杉を支える者でなくてはならなかった。
静寂を打ち破るように善銀が吠え、激しく多目の刀と火花を散らす。
幾度か打ち合うが、善銀の膂力に多目は次第に押され始めていた。徐々に後退しかかるのを、懸命に横へ横へと力を流して防いでいる。
だが、善銀にとってけして有利な状況ではない。
多目が目配せをしているせいか彼の兵は善銀を遠巻きにしているが、数人はいるであろう男たちに一度に掴みかかられたらさすがの善銀にもどうしようもないことは明白だ。
その時が来るまでに多目の隙をさらいたい善銀であったが、さすがに遊撃隊を任されるほどの実力はあるらしく、そうやすやすと手抜かりを起こすような男ではないようだ。
善銀の焦りを悟ったのか多目は横に流した力を利用して前進し、いつの間にか善銀の後ろへ回っていた。
すかさず善銀も向き直る。
先程青年が立っていた場所は、昨夜からの雨でぬかるんでいた。
――足を取られたらしまいだ。
じりじりと後退を続けながら、善銀は青年と打ち合い続ける。
ふとその時、松山城の方角から毛むくじゃらが駆けてくるのが遠目に見えた。
――資正の犬か!
善銀には一目で分かった。
資正は飼っている犬を軍事用に訓練するという一見酔狂な試みをやっていて、善銀のところにもしばしばその報告と称して犬を連れて遊びに来たものだった。
彼らは実際よくしつけられていて、兵ほどまでとはいかないが、善銀の顔を知っているから加勢してくれる可能性も考えられる。
いざとなれば四つ足の動物は人間よりはるかに獣じみていて、強い。
――形勢逆転、なるか。
期待を込めて善銀は左脚で剣戟をいなして踏みとどまった。
背にはすでに朽ちた古井戸がぶつかり、これ以上の後退は難しい。
善銀は最後の力を振り絞って、青年に向かって駆けようと試みる。
その刹那、空が遠のいた気が、した。
ずるりという嫌な音と共に、身体が傾き、直後、身体が水面に叩きつけられる。
――古井戸か。
気づいたが、もう遅かった。
重い甲冑が水を吸ってさらに重量を増し、善銀は深く深く底へと沈んでゆく。
善銀は、先程背にしていた古井戸に落ちたのだ。
水面に顔を出そうともがくものの、狭い井戸では満足に手足を動かせず、口からごぼりと空気が奪われていく。息が苦しい。
身動きも取れず、肺に水を飲んでしまった善銀は、己のむなしい終焉を悟った。
死を覚悟した瞬間、少し離れて布陣していた犬好きの婿養子のことが、不意に脳裏に浮かぶ。
――資正、無事でおれよ。
扇谷上杉家最後の守護神は、そのまま古井戸で溺れ死んだ。

善銀が井戸に落ちて死んだのを確認した多目新左衛門は、氏康隊に合流すべくその場を去ろうとしていた。
扇谷上杉朝定が戦死したとの報も伝わってきている。勢いに乗るなら今しかなかった。
――首は取らずともよい、一人でも多く切り伏せよ。
それが、氏康の命だ。
「我が隊も、氏康様に合力に向かう」
新左衛門がそう、部下に命じた時だった。
一匹の犬が古井戸に走り寄り、切なげに鳴くのが見えた。
――野犬にしては面妖な。
と新左衛門は思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。一刻も早く氏康の所へ向かわねば。
踵を返して歩を進めようとすると、背後からけたたましく犬の咆哮が聞こえてくる。
驚いて振り返ると、先程古井戸に縋っていた茶毛の犬が、新左衛門に向かって唸り声をあげていた。憎悪に満ちた声である。
今にも新左衛門に飛びかかってきそうな勢いで、犬は全身の毛を逆立ててこちらを睨んでいた。
部下の一人が、怯えたように新左衛門をせっつく。
「新左衛門様、あの野犬、危険でございます」
「ああ、先を急ごう」
新左衛門は犬の様子に不可思議さを覚えたが、足早にその場を後にした。

かくして河越夜戦は北条氏康の圧倒的勝利に終わり、太田資正の義父、難波田弾正善銀は扇谷上杉家の滅亡と共にひっそりと歴史から姿を消した。

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