「奸雄は笑う-越後守護代 長尾為景と男たち-」(仮題)用の短編。
前回
序:長尾能景(為景の父)
「むかし、村上には鬼がいた」
と、為景が言った。
越後国・国府春日山。
先般登城した山吉能盛は、政務もそこそこに主・長尾為景の私室へ招かれていた。
「鬼、でございますか」
奇妙な会話だが、特に気にするでもなく能盛は応える。
時々、己の主はこうしておかしなことを言う。
最初こそ面食らったものだったが、これは為景なりの雑談のつもりなのだ。戦場では鬼神とも称さ れる為景は、親しい人間の前ではくつろぎたいのか、他愛ない話をするのが好きらしかった。
――それにしても、鬼か。
鬼や妖の類など信じてはいないだろうに、ひどく懐かしげにそう告げるのは、戯れからだろうか。
――つまり私は戯れてもらえるほど、心を許してただいているということになる。
家臣として、これほど嬉しいことはない。
実際、能盛は為景がまだ守護代になる前から、その身を支え続けてきたのである。能盛は府中にいる直臣ではなく三条蒲原郡の郡代のため普段はなかなか為景と顔を合わせることはないのだが、第一の家臣は我の事なり、との自負も少なからずあった。
――して、お館様の仰る鬼とやらというのは、どういうものであろうか。
能盛は、続きをくわしく聞いてみることにした。なにせ、自分を呼びつけたのは為景の方なのだ。 為景としても早く話がしたかろう。
「昔と仰るには、そやつ、今はおらぬのですか」
「俺が、その鬼を食ろうたゆえな」
能盛の問いに、為景は意味ありげにぺろりと口端を舐めた。
いやに艶かしい視線を向けられ、ぞくりと背中が粟立つ。
――食ろうた、とな?おそらく言葉のあやであろうが……
能盛には、為景の言う、村上の鬼が何なのか皆目見当がつかない。
村上とは、揚北衆の筆頭格本庄氏の本拠である。為景が奉戴する守護権力とは独自の路線を歩む揚北地方の領主たちは、幾度となく反抗的と恭順を繰り返し、本庄の現当主房長もまた、父の死にあわせて守護定実と和を結んでいた。
だが能盛には、彼らがこのまま大人しくしているようには思えない。
「本庄房長……あれはすぐまた我らに刃を向けるような気がいたしまする」
「そうであろうな」
為景はなぜか愉快そうに、そう言った。
「父の時長であれば、もっと面白かったろうに」
残念がる為景の心が、能盛には読めない。
為景は無類の戦上手として名を馳せているが、本庄の先代当主時長には、とくにそういった噂もなかったはずだ。
いっそ無謀な戦を仕掛けて無様に城を落とされた分、かえって評価が低いくらいかもしれない。
だが為景は、時長を下に見る能盛に対し、笑って首を振った。
「俺や親父殿は、たまたま戦(これ)が得意だった。本庄は、そうではなかった。それだけの差だ」
為景は、なおも続ける。
「己の生を止めろと言われて、諾々と従う人間などおるまい」
「主の命であれば、己が意に沿わずとも従いまする」
「それなのだ。普通はそう考えるものよな」
だが、と為景は言葉を切った。
「主の命で、己が死ぬくらいなら、俺は主を弑してもかまわぬと思っておる」
「それゆえ、お館様は先代守護の房能様をお討ちになり、この越後の支配者となられた」
「そうだ。そしてその心こそ、俺と村上の鬼を繋ぐもの」
なおも能盛が理解できずにいるのを、為景は楽しげに見遣り、こう言った。
「俺と時長はよう似ておったのだ。池に映った己の姿を見るようにな。それゆえ、あれはひどく面白い男だった」
「ご気性が似ているということでございましたか」
「左様。ここがな、それはそれは憎らしくなるほど似ておったのよ。思えばあれに病をうつされたのやもしれぬな」
為景は、皮肉めいた笑みを浮かべながら心の臓を右手の拳でとんとんと叩いている。
「では、鬼というのはお館様の鬼神の如き強さをなぞらえた例えで……?先ほども申しましたが、時長ごとき、お館様の足下にも及びますまい」
「そう褒めても何も出ぬぞ、能盛?」
どこか面映ゆそうにしている為景をそっちのけに、能盛は一人熱くなって拳をぎり、と握った。
「いいえ、事実でございますとも。かように頼りがいのあるお方の元におりながら我が愚息めは守護家を重んじようとしておる。若い者がこれではおちおち死ねませぬ」
能盛が嘆いているのはおのが嫡子・政久のことである。
どうにも政久は、為景の力は認めているがあくまで主筋である守護上杉家を立てるべきだという考えを持っているらしかった。
老いた自らに代わり、政久に為景を支える忠臣となってほしいと願う能盛には、歯がゆくて仕方がない。
「父であるお前が、そうこき下ろしてやるな」と為景がたしなめたが、能盛は苦々しい顔をしたままだった。
「しかしですな……」
「お前が心を痛めて倒れらでもしたら、俺が困るのだ」
「そう仰せなら、控えておきますかな」
わざとらしく困り顔をした為景に、さすがの能盛も愚痴を引っ込めた。
年を食うと、どうにも愚痴っぽくなっていけない。
「ぜひそうしてくれ」と肩をすくめる為景に、つられて能盛も笑った。
「それはさておき、鬼と言うのはな、あれの容姿を指したものよ」
話題を元に戻した為景が、懐かしそうにかの男の風貌を説明し始めた。
加齢で色素の抜けた伸ばし放題の乱髪、爛れたように紅く変色した右瞳、手入れのされない顎髭と対照的に品のある口髭――そしてなにより、彼の纏う俗なくせに俗世に絡め取られすぎないどこか不釣り合いな雰囲気が、為景の目には人外の者に映ったのだという。
「時長殿と、お会いになったことがあるので?」
「会うどころか、あの男のことなら、よう、よう知っておるぞ」
――なにせ俺のここを初めに奪っていった不届き者ゆえ、忘れようにも難しい。
為景はそう言うと、ぴしゃりぴしゃりと扇で自らの尻を叩いて悪戯っぽく笑った。
尻を、奪う?――もしや。
聞いたことがある。越後守護代・長尾為景は男であろうが利用できる者は構わず褥に引き込み、魅入られた者は人生が狂うのだという噂を。なんと根も葉もない下賤な噂もあったものだろうと一笑に付していたのに、よもや本人が肯定してしまうとは。
しかし能盛は、いけないと思いつつも為景が男に股を開いている所をうっかり想像してしまった。話しているだけで匂い立つような独特の色香をもつこの男が、意のままに己の上で乱れたらさぞ男冥利に尽きよう。
彼の言う村上の鬼も、その毒牙に掛かったうちの一人というのか。
そのまま能盛が唸っていると、
「お前も試してみるか?」
と為景が意味ありげに視線を向けてきた。慌てて丁重に断る。
能盛とて己の主の魅力に惹かれないわけではなかったが、一度手を出してしまえば、戻れなくなるような気がしたからだ。ましてや自分はもう老齢である。一度の火遊びでうっかり腹上死でもしてしまったら目も当てられない。
為景の方はというと、断られるのは織り込み済みだったらしく、
「お主はそういう男よな。それゆえ気安くいられる」
などと満足げに頷いていた。
「ところで能盛よ」
房長の話に戻るがな、と為景が薄く笑う。
「あの男、存外早くに死ぬやもしれぬな」
「我らに背いて討死いたしまするか」
「いいや。一人でに死ぬであろう。本庄の血と、己の板挟みになって、怒りを溜め込んだ頂点で事切れる……そんな気がせぬか」
楽しそうに笑う為景に、能盛はなんと答えていいかわからない。
ただ、今は黙って彼の吐露を聞かねばならない。そんな気がした。
為景はけして饒舌な方ではない。気心の知れた者とは雑談に及ぶとはいえ、ここまでとりとめのない長話をするのは非常に珍しい。
ふいに為景が、ひどく退屈そうに溜息をつくのが聞こえた。
「本庄は、つまらなくなった。必死に父を真似ようと水面下で我らに背信しようとしておるだろうが…房長はまともだ。かなしいほどに実直な男だ。だがそのまともさゆえに、あれに父親ほどの面白みは、ない」
それには、房長を蔑むというよりむしろ、その父親――時長を恋うような、そんな響きさえあった。
――少なくとも私には、そう、見えるのだ。
一呼吸おいて、能盛は為景に問うた。
「憧れて、おられたのでは」
「今思えば、あるいはそうだったやもしれぬな」
と言って笑う主は、見たことがないくらい穏やかな、はにかむような顔だった。
はたして、為景の予言は的中した。
本庄房長は、一五三九年の十一月、弟・小川長資に背かれたことに烈火の如く怒り討伐に向かう途中、病を発してそのまま帰らぬ人となったのである。
次話、「永正に起つ男たち」(北条早雲と長尾景春)に続く。