博の遺体を背負い歩く悪夢を見る、今度こそ置いていかれたくない信頼度500%の秘書パッさんの話。
「潮汐の下」&信頼度ボイス3のネタバレと神経ダメージに関して捏造含、博の顔出し無し+種族特定なし。
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――あれを甘く見てはいけない。引きずり込まれて、戻ってこられなくなりたいの?
同伴したアビサルのオペレーターが発した警告を、その場で理解できた者は皆無だった。
イベリア周辺区域での任務で発見された奇妙な敵性生物。
彼らに遭遇した全員に、帰還後一斉にヘルスチェックが行われた。
敵性生物の名は、恐魚。
神経系に重篤な悪影響を及ぼす。
オペレーター達に与えられた情報は、それだけ。
それ以上を知る権限は与えられなかったが、彼らに負傷を負わされた場合、精神不安が残ることがあるのだということで医療チームは任務参加オペレーターに対し、その後の航行中に経過観察を義務付けた。
現在、メディカルエリア・カウンセリングルームでススーロの診察を受けているパッセンジャーも、その中の一人である。
「こちらが、任務参加後からのデータの推移です。現状危険視するほどではありませんが、各種数値が悪化して来ています。何かおかしな症状とか、出ていませんか?」
入力用デバイスを片手にヒアリングを行う目の前の小さな医師に、彼は困ったような顔をして首を傾げた。
「……近頃、悪夢をよく見る、くらいでしょうか」
「なるほど……たしかに他のオペレーターからも似た訴えがあったので、処方を少し調整しておきますね」
「ありがとうございます」
電子カルテに手際よく記入を終えたススーロが、再び長躯の男を見上げて問う。
「ちなみに、どんな悪夢なんでしょうか。治療の参考になるかもしれないですし、嫌でなければ……」
気を利かせたであろう申し出に、パッセンジャーはいつものにこやかな笑みで、しかし丁重にそれを退けた。
「……すみませんが、申し上げられません」
含みのある表情で察したらしいススーロは、一瞬怯みはしたものの、「わかりました」と潔く引き下がる。
そのままカウンセリングはお開きとなり、悪夢の内容は誰にも知られない、はずだった。
ドクターの執務室の入り口を、控えめなノックが二度叩く。
PRTSが来訪者の名を告げた。
「――来客は医療チームオペレーター、ススーロさんです。只今は休憩時間中ですが、入室を許可しますか、ドクター?」
「入れてあげてくれ」
「ドクター、休み時間にごめんね。」
ちょっと個人的に相談したいことがあって、と抱えた端末を操作しながらススーロがドクターの机のそばまでやってくる。
「相談?ススーロから私に?珍しいこともあるな」
私だってこれでもけっこうドクターを頼りにしてるんだよ、と可愛らしい反論が返ってくるのを聞いて、先程までの疲れが少し和らいだ気がした。
彼女は口調こそ厳しいところもあるが、その実とても気遣いに長けている。
つい自身の休息を後回しにしがちなドクターにとって、口調のきついフォリニックやいちいち棘のある言い方をするせいで気疲れのするケルシーに比べると、ススーロは接しているとどこか癒やされる、そんなタイプの医療オペレーターに分類されるのだ。
そんな彼女の相談とあらば、快く聞いてあげようという気になるのが人情というものである。
どうにも付き合いづらい師弟が相手では、きっとこんなにリラックスした雰囲気にはならなかっただろう。
それでね、とススーロがデバイスの画面を指し示して言いづらそうに告げる。
「パッセンジャーさんのことなんだけど」
ススーロの口から彼の名が出ることにドクターは驚いた。
が、他ならぬ普段から秘書に付いてもらっている馴染み深い男の話であれば居住まいを正して聞かざるを得ない。
――病状の悪化だろうか。
彼は額に源石結晶が露出してしまっているから、ありえない話ではないはずだ。
嫌な想像が脳を巡り、防護マスクの下を冷や汗が伝う。
ドクターの反応にやはりと思ったのか、ススーロは慌てて訂正を入れてきた。
「直接鉱石病の症状が酷くなっているってわけじゃないんだけど、この間の例の任務の経過観察が……引っかかってて」
「三週間前のイベリア周辺の外勤任務の?」
「うん。少し数値が悪化してたから心当たりがないか聞いてみたんだけど、何かを隠そうとしてる感じがして」
彼女の言葉を受けて、不可思議さに首を傾げた。
「何かを隠している、か」
生い立ちや性格、病状の影響で非協力的になる患者がいることはドクターもよく知っている。
しかし、パッセンジャーについてはどこの所属の人間に聞いても「おとなしすぎる」と言われるくらい素直に従っていたはずだ。
だからこそススーロも困ってドクターに聞きに来たのだろう。
彼と個人的に親しく会話する人間は限られているので、無理もないことだった。
「普段は医療チームのいうことを聞かないような人じゃないから変だなって……もしかしたらドクター以外に言えないことかもしれないから、もし治療に繋がりそうなことを聞き出せたら医療チームに連絡をくれないかな」
ススーロはドクターに最大限気を使いながらも、自身の懸念を余すこと無く伝えると、ぺこりと小さく頭を下げた。
悪しからず思っている男に関わる話でもある、小さなお願いを無下にする気など微塵も起こりはしない。
ドクターは防護マスクの下で柔らかく微笑むと、ススーロの肩をぽんぽんと叩いて首肯した。
「分かった。私から聞いておくよ」
ドクターの執務室でいつも通り、書類整理に勤しんでいるパッセンジャーに特段普段と変わった様子は見当たらない。
PRTSに記録保存を告げ端末をソファーサイドのテーブルに置くと、棚にファイルを戻す彼の背に声をかけた。
「医療チームからメディカルチェックの数値が悪化してると聞いたが、身体は大丈夫なのか」
出し抜けに触れられた核心に、男の手がピタリと止まる。
振り返った瞳と目が合って、普段の笑みが消えていることに気が付いた。
「気になさるほどのことはありませんよ。少々、夢見が悪い程度ですので」
きっと、ススーロや医療オペレーター達であったら、このまま「そうですか」と引き下がったことだろう。
パッセンジャーはこれ以上語るつもりはないと、言外に訴えていた。
が、彼とそれなりに付き合いの深いドクターにとって、その防衛線は意味を持たない。
「君の「少々」は他人からしたら少々じゃなくてよっぽどだぞ」
目元に疲れが溜まっているのを私が気付かないとでも?と少々棘のある言い回しで指摘してやると、彼にしては珍しくそのまま押し黙ってしまった。
常ならば観念したような笑みの一つでも返ってくるところだ。
ドクターは若干狼狽えたが、そもそもこれは彼が抱えている問題を聞き出すために振った会話である。
そのまま続けるより他に、選択肢はなかった。
「一体、どんな悪夢を見てるんだ?」
一見、それは普通の問いだった。
悪夢の内容は、人に話してしまえば楽になるという説もある。
きっとドクターのよく知る彼なら、さらりと言える部分の回答を提示するくらいの器用さはあるはずだ。
しかし、今日のパッセンジャーは予想に反して、見たこともないような苦々しい顔をして目を伏せた。
「……あなた様にも、言えません」
執務室に入る日差しが反射して読み取りづらいその横顔は、鉱石病の発作で額が痛むのを堪える時よりも苦しみを表しているように見えた。
「……そうか」
何かを隠していると告げたススーロの勘は、間違っていなかったのだ。
ドクターは深追いせず、再び手にとった端末のメッセージ・ウィンドウを起動すると素早く定型文をある宛先に送信した。
”To:Kal’tsit”
彼女への相談が吉と出るか、凶と出るか。
彼が部屋を去った後、ドクターは一人、執務室のソファーでため息をつく。
パッセンジャーがメディカルエリア・ケルシーの施術準備室への呼び出しを受けたのは、翌日の夕方だった。
消毒液と薬品の匂いが混ざった独特な空気に落ち着かなさを覚えつつ、時間ぴったりに現れた部屋の主に声をかける。
「あなたから直々にお呼び立てとは、私は医療チームに恨みでも買いましたか、ケルシーさん」
「私が呼びたくて呼んだわけではない。ドクターからの要請に応えただけだ。もっと言えば、最近、医療チームのカウンセリングで君が症状を記録することを拒んだのを憂慮した結果が、回り回ってこの状況を生み出しているに過ぎない。つまり、君はもう逃げられないということだ」
入室して開口一番、嫌味をぶつけてみたところで、彼女はいつも通り気にしていないといった体である。予想はついていたが。
「……分かりました」
ケルシーのやり口を、パッセンジャーは嫌というほど知っている。
詰将棋の如く人をそれ以外に選択肢がない状態まで追い込んで、それでもあえて自分の意志で選ばせる。
この人はそういう相手なのだ。
彼女の言う通り、逃げたところで、どこにも行けやしない。
ドクターからの要請ということは、十中八九、昨日答えをはぐらかした件についてだろう。
施術準備室のテーブルに浅く腰掛け、観念して重い口を開く。
「精神症状の一環として悪夢を見ている、それだけの話でしょう?」
「己の感情を探られたくないのは理解できるが、それを理由に拙速な結論で自棄になるのは褒められたものではない。既にススーロから大まかな報告は受けているが、問題は君が中身を伏せている点だ。あの頃の夢なのか?」
「そんなものなら、もう何度となく見ましたよ」
吐き捨てるように返した言葉に、ケルシーは面倒くさそうなため息をついた。
「では何だ。君が唯一気を許しているドクターにすら言えないような事を、私に聞かれたから言うとは思えないが」
天才的に人を苛立たせる癖はやはり無自覚なのだろう。
そしてそれが妙に懐かしい心地がしている自分がいるのに、可笑しさすら覚える。
「……遺体を背負った、夢なんですよ」
彼らの間で「それ」と言えば、共通見解としては一つしかなかった。
案の定ケルシーからは、「ソーン教授のか?」と聞かれる。
だから「あの頃」の夢とは違うと言っただろう、と目で訴えたが、こういう時だけ察しの悪いケルシーはあえてか知らずか、彼の苛立ちを黙殺した。
こうなっては結局、全てを口にするより他にない。まったく腹立たしい。
しかし怒りを声に込めようとして、発した音はひどく震えたものだった。
「”今の私が、ドクターの遺体を背負い歩く”夢、なんです」
「……」
さすがのケルシーも、これには絶句した。
だから言いたくなかったのだ。ましてやドクター本人になど。
彼が過去に恩師の遺体を背負い歩いていた事はケルシー以外知り得ないことだが、そもそもの夢の内容が内容だけに言えば間違いなく変な心配を抱かれる可能性が高い。
冷徹になりきれないあの”お人好し”の指揮官はいらぬ気を回すに違いない。
パッセンジャーにとっては、その気遣いこそが最も避けたい物だった。
どうせ隠すほどのことでもないと冷静な自分は告げているのだが、一方で嫌な予感がどうしても拭い去れなかった。
だから、強情でもって突っぱねるようなやり方しかできなかったのだ。
視線を落としたままの彼に、なだめるような一言が降る。
「言えない理由はわかったが、あまり医療チームを困らせるな」
彼女にしては珍しい、どこか優しさを含んだ声だった。
その態度は、他のオペレーターであれば喜んでありがたがっただろうが、パッセンジャーにとってはどうでもいいことだ。
一番言いたくないことを、一番嫌な方法で、一番嫌な相手に暴かれているのである。
気分が良いはずがない。
恨みがましい目で彼女を見遣ると、次に告げられたのは忠告だった。
「それから……ドクターも。騙し続けられるような相手じゃないのは君もよく知っているはずだ、エリオット」
「……その名で呼ばないでいただきたいと言ったはずですが」
彼女以外はおそらく拝んだことのないだろう極めつけに不機嫌な態度を一顧だにしないまま、ケルシーは話は終わりだとばかりに次の診察のための書類を手早くファイルボックスから順に取り出していく。
去り際、彼に言い置いた言葉は、パッセンジャーの眉間の皺を更に深くするのに十分過ぎるほどの内容だった。
「嫌なら、ドクター本人に洗いざらい話して来ることだ。……医療チームはどうしても、身体の健康に根差したアプローチにならざるを得ないからな」
いつもの人を苛立たせる彼女に戻ったことに安堵しつつも、自身も笑みの仮面を被り直してやれやれと立ち上がる。
「……戦術立案の他にカウンセリングまでやらされていたらあの方の身体が持ちませんよ」
一矢報いるつもりで投げた言葉を、彼女が聞いたかどうかは定かではなかった。
ケルシーとの面談から数日後、パッセンジャーは再びドクターの執務室を訪っていた。
いつもの秘書業務のためだったが、あの一件以来どことなく二人の間に流れる空気はぎこちない。
夕方十六時、作業時刻もあと二時間ほどで一区切りといったところで、頭には彼女の言葉が去来していた。
――洗いざらい話せ、か。
言えば、絶対に面倒なことになる。
だが、言わなければこの居心地の悪さは解消しないのもまた確かだ。
深い深いため息を付いて、彼は机で端末を操作している主人に声をかけた。
「ドクター、少々よろしいですか」
「うん?」
ちょうど集中が切れていたらしく、存外素早く反応が返ってくる。
いっそ仕事が忙しいからとつれなくされたほうがましだった。
「……先日の、ことなのですが」
しぶしぶ、言葉を絞り出す。
「ああ、例の悪夢か」
「ええ。さっさと内容を吐いて来いとケルシーさんに脅されまして」
それは悪いことをしたな、と申し訳無さそうに謝るのを見て、謝らせているという事実自体に苛立った。
ドクターに案件を差し戻したのはケルシーである。
彼女がこれくらい申し訳無さそうな顔の一つもすれば気も晴れるのだが、それに期待するだけ無駄なのは誰よりも自分が知っている。
「それで、どんな内容なんだ?」
じっくり話を聞く体制に入ったドクターは、デスクサイドに立つ彼に向き直り手を膝の上で組んでこちらを見上げた。
意を決して、訥々と言葉を紡ぐ。
「……夢の中の私は、あなた様の遺体を背負い彷徨い歩いているのです。幾晩も」
やはり予想だにしていなかったのだろう。
ケルシーに告げた時と同様、二人の間にある空気が静止する。
「私の?」
「……ええ」
短い問いへの端的な答えにしばし考え込んでから、ドクターは言葉に悩みつつも、穏やかな声音で嬉しげに彼の述懐を祝いだ。
「言いづらかったのは分かるが、少し嬉しい誤算だな」
「それは、どういう」
「私の最期はどうせろくなものにならないだろうが、つまり君は看取ってくれるってことだろう?」
そう、にこやかに発された彼の言葉に、パッセンジャーは表情を取り繕うことも忘れ、凍りついた。
否、自身が立ち尽くしていることすら、今の彼は認識できなくなっていた。
訝しむドクターの声が、どこか遠くに聞こえる。
――以前同じようなことを言った男の末路はどうなった?
ぐらりと視界が歪む。
――今、目の前で話しているのは誰だ?
先生。本当のことになってしまう。それ以上言わないでください!
喉を振り絞って叫ぼうとしても、いたずらに呼吸が浅くなるだけで、襲い来る冷えた感覚に膝を屈するしかできなかった。
――彼を背負って歩いたのを忘れたのか?
違う、先生は、まだここにいるじゃないか。先生を止めないと。止める。どうやって?自分一人生き残ったのだって偶然という他ないくらい、絶望的だったじゃないか。
――じゃあ、私は、僕は、一体、誰を。ここはどこで、私は、誰と。
「パッセンジャー!」
錯綜する思考に意識を縺れさせる男を砂地獄から引きずり出すように、声が響く。
「……大丈夫か?」
床に崩れ落ち、辛うじて机に縋り付いていた彼の肩を、ドクターが揺さぶっていた。
平気だと返事をしようとして開いた口は、陸に上げられた魚のようにはくはくと見苦しい呼吸を繰り返すだけだった。
「君が泣く所は初めて見たな」
差し出されたちり紙を見て、ようやく自分が落涙していたことに気が付く。
ここは執務室。ドクターの執務室。ロドスの艦内だ。
呼吸とともに徐々に身体に現実感が戻って来たのを確認すると、パッセンジャーは心配そうに自身の側に屈んでいた男に「失礼」と断り、顔を背けて鼻をかんだ。
「すまない。さっきのは、医療部には黙っておくから……」
ばつが悪そうに頬をかきながら、彼はなおも背をさすってくれていた。
幼子でもあるまいしそこまでせずとも、と思ったが、どのみち立ち上がるまでの力が戻るまではもう少し掛かりそうなので、こくりと頷いてそのまま甘んじて受け入れる。
「……私が、言い渋った理由は、ご理解いただけたかと」
涙の余韻が残る声に、不機嫌の色が濃く出ていようが、彼はきっと許してくれるだろう。
――あれはあくまで夢であって、現実ではないのだ。
なるほど医療チームが言うように、話してしまえば整理が付くものなのかもしれない。
少々荒療治と言わざるを得ないが。
ドクターは隠しておいてくれると言ったが、いっそ今度の定期検診の際には、暴露の影響でよくない発作が起きたと称して人のいい医療オペレーター達を困らせてやろうか。
よろよろと机やドクターの肩を借りながら立ち上がり直す。
「一度、エンジニア部に戻ります。あちらの仕事も残っていますので」
荷物をまとめてそのまま執務室を後にしようとすると、後ろで様子を伺っていたドクターから待ったがかかる。
「エリオット、その」
「……何でしょうか」
わざわざ彼の本名を出してまでの言いづらそうな様子から、身構えて答えを待ったパッセンジャーの耳朶に届いたのは、拍子抜けするような提案だった。
「今夜、予定は空いてるか?夕飯でも一緒にどうかなと思って。久しぶりに食堂で羽根を伸ばしたい」
てっきり医療チームできちんとメンタルケアを受けろと説教でもされるかと思ったのに、食事の誘いとは。
呑気にもほどがあるのではなかろうかと先程とは別の意味で肩から力が抜ける気がした。
しかし断る理由もない。誘いが嬉しくないわけでもない。わだかまりは解消したのだ。
とはいえ、なんと答えたものかと困っていたところ、この上司はそれを否認のための言葉探しの時間と受け取ったらしく、しどろもどろと言葉を続けた。
「……まあ、まだ私と顔を合わせるのが気まずいなら、無理にとは言わないし、また日を改めてもいいし、本当に乗り気だったらという話なんだが」
断りやすいようにとあれこれ言い訳を並べ立てているさなか、ドクターの腹の虫がぐぅ、と鳴く。
ばっちり聞くことになってしまったパッセンジャーは、一瞬面食らってから、ふっと笑みを漏らした。
「……十八時ごろ、お迎えにあがりますよ」
形式上は終業時刻になっているので、多忙なこの人であっても夕飯のための一時休憩くらいなら大丈夫なはずだ。
いいのか、と露骨に返事に喜ぶ顔を見ていたら、悪夢のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
今夜の食堂はたしか前回逗留した補給地点の影響で多様な食材が入荷できたとかで、いつもより豪華なメニューが並ぶ予定とすれ違ったオペレーターが騒いでいたのを思い出す。
まだ二時間もあるというのに、うきうきとした様子を隠しもしないドクターは、自身にも仕事が残っていたことをようやく思い出すと、名残惜しそうに軽く手を上げて一時の別れを告げた。
「じゃあ、また」
「ええ、また」
応じるように会釈して部屋を出た彼の前に広がっていたのは、故郷のものでも、サルゴンのものでもない、艦船の窓から差し込む美しく澄んだ晴れやかな夕暮れだった。
パッセンジャーが部屋を去った後、数刻もせず入れ替わりで執務室にアーミヤがやってきた。
明日の朝、この部屋で行われる会議の打ち合わせと議題の確認に来たらしかったが、彼女は入室するなり、心配そうな顔でドクターの側へ駆け寄ってくる。
「ドクター、さっき……ドクターの部屋からとても、とても強い悲しみを感じたんです。何か、あったんですか?」
握られた手が震え、不安げな瞳が揺れている。
しかしなんとなく、先程のことを誰かに話す気にはなれなくてとっさに嘘をついた。
「……いいや」
アーミヤはそのまま何も言わず、会議資料の確認を始めた。
彼女に倣って書類の束を出席者ごとに仕分けていく。
たぶん、拙い嘘は気付かれているだろう。嘘の上塗りをする気にもなれず、ドクターは内心後悔していた。
しばしの無言の後、独り言のつもりでぽつりと言葉がこぼれたのは、彼女に対する甘えがあったからかもしれない。
「強いて言うなら、私のせいかな」
ぴく、と長い耳がこちらを向く。
彼女は先程同様それについて詳しく聞くことはしなかったが、今度はきちんとこちらを向くと、強い意思の籠もった瞳で彼を見据えた。
「ドクター」
「ん?」
「皆さんのためにも、ドクター自身を大事にしてあげてくださいね」
それだけで救われる人もいるんです、とアーミヤは念を押した。
優しく、しかし厳しく諭す彼女の顔は守られる者の物ではなく、一つの群れを率いる長の姿をしていた。
言うなれば、仔細は聞かずとも全てを見守る父のような。
時折、彼女が背格好以上に大きく見える時がある。可憐なコータスの少女以上の、何かに。
その顔をされると、きまってドクターは何も言えなくなる。
きっとケルシーであったとしても彼女のこの姿には何も言えやしないだろう。
「あ、ああ、うん……そうだな」
若干面食らった様子の返答にアーミヤは困ったように微笑んだが、その雰囲気はもう、年相応の少女のそれに戻っていた。
「じゃあまた明日の朝、よろしくお願いしますね。おやすみ、ドクター」
「ああ、おやすみ」
手を振って去っていく小さな背を見送ると、デバイスに表示された時刻はまもなく約束の十八時を回ろうとしている。
「アーミヤにああ言われたんじゃ、守るしかないな」
いつしか、彼にも同じようなことを言われたことがある。
――御身を大事に、か。
天を仰いだドクターは頭をかきながら、秘書の迎えを楽しみに待ちつつ雑務の山と向き合う決心をした。
彼女らの言葉通り、ほどほどに。
翌朝会議に訪れた際、アーミヤはある物を見て、温かな気持ちに目を潤ませた。
執務室の机の上に、艷やかなリーベリの羽根が一枚。
青く暗く輝くそれは、誠意かけじめか分からないが、吉兆には違いない。
ドクターの隣で記録を取りながら佇む男の顔が、心なしかいつもより晴れやかに見えた。