創作BL:君の髪がすきだ

小説/一次創作

悪夢と僥倖が一度に訪れた時、人間の脳は原始的な衝動に身を任せるものらしい。

子供の頃、俺の好みのタイプを狂わせた元凶が勤め先の美容室に客として現れるなど、誰が想像しただろう。
昔馴染みの近所のガキを「ご指名」で予約してきたそいつは、俺の姿を見つけるなり、あの日と変わらない笑顔で「やっほー」と呑気に手をひらひらさせた。
お知り合いですか、昔の近所に住んでてさ、と会話を弾ませている新人の後輩女子と件の男を唖然として見ていた俺は、盛大なため息をつく。
座席に案内され上機嫌に雑誌を開く彼の髪を見て、手に取り、さらに眉間のシワが深まった。

「あんたさぁ……ちゃんと大事にしてやらないと髪ってすぐ痛むんだぞ」
自分の口から出たのはおよそ美容師が客に取るにはふさわしくない不機嫌な声だった。
もちろん、普通の客には間違ってもこんな言い方はしない。
うちはカット技術だけじゃなく、良質な接客が評判の店なのだ。
彼は無遠慮な物言いを親愛の現れと取ったのか、困ったように眉を下げた。
「頭いいんだしフツーに大学とか出て、エリート社員にでもなったんだと思ってたよ」
――俺だってそう思ってたよ。
男にしては長い、肩口をを少し過ぎたところまで伸びている髪をカット用に流れを整え梳かしながら、内心毒づく。

俺がガキの頃近所に住んでいたこの髪の長い「お兄ちゃん」は、料理が上手で、深夜勤務の多い両親の変わりによく俺に飯を作ってくれていた。
中学に上がってすぐ、都会に料理を勉強しにいくとかで引っ越してしまい、それっきりになっていたが、俺が今の仕事をしているのは、九割九分、彼のせいだ。
「俺、あんたの髪いじるために美容師になったんだけど」
「へ?」
髪乾かしますね、くらいの軽い口調で告げた重大な告白。男が聞き逃すはずもなかったが、さすがに驚いたらしい。
首を後ろに向けられてはカットができないというのに、どういうことなの、という目でじっと見られている。
間の悪いことに後輩は奥に引っ込んで、予約表の整理をしているところだった。
俺は舌打ちをして前を向くよう促すと、苛立ちをぶつけるようにうねった枝毛をカットしていく。

「なのになんでこんな髪ぐっちゃぐちゃなわけ?」
「なんでって……まあ、男で髪伸ばしてると、いろいろあるじゃん……」
しばらくは料理人として働いていたが、髪のことでいちゃもんをつけられたりで、今は珈琲屋のバイトをしていると彼は言った。
再びグルメ雑誌を見やるその目元に若干の疲れが見えるのは、年齢によるものだけではないだろう。
「うちの店のオーナーがさ、お前がここで働いてて、カットしてもらったらアフターケアもすごく良かったっていうもんだから」
言われて思い出した。少し前に新規で入った男性客が、退店前に見違えるような明るい笑顔で帰っていったっけ。
固定客になってくれそうなのでこの間営業のはがきを送ったのを覚えている。
その彼がこの店、というか俺を紹介したんなら、さしずめキューピッドといったところか。あるいは悪魔の囁きか。

――そう、俺は昔からこの「お兄ちゃん」の髪に恋しているのだ。
襟足を整えながら、素材はいいんだからちゃんと整えないと勿体ないと脅せば、悪びれもせず「お前に手入れしてもらえばいいじゃん」と笑顔でのたまう。
人が何年あんたにこじらせてきたと思ってるんだ。
そっちがそっちなら、こっちだって言いたいことは言わせてもらう。
後輩は未だ、予約表と格闘中だ。
「じゃあ、」
今日切り落とした髪取っといて、コレクションして、髪質を研究してもいいんだなと凄んだ俺に、彼は一瞬目を丸くして、そして「すべてわかった」とでも言いたげな顔でにやりと口を歪めた。
「世間でそういうの何ていうか知ってる?」

この変態、と。

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